BILA KU INGAT   忘れ残りのインドネシア

おとっつあんの忘れ残りの記

常夏の将棋

ジャカルタにいた頃、時々、将棋で気晴らしをしていた。

同僚にアマ3段の免状を持つ人がいて、休日出勤の息抜きに、休憩室でよく指した。
彼とは居住も同じエリアで、家族ともども親しくさせていただいた。

ジャカルタで、バイクに乗るきっかけも、彼だった。
まずは彼の小型バイクを借りて、市内試走に挑んでみたのだ。

無論始めは緊張しまくりのノロノロ運転だった。
なにせ、ジャカルタの道路では、交通秩序もマナーもルールも完全無視の、
サバイバルレースが展開されている。

路面の凸凹に、幾度も車体が振られる。
渋滞に巻きこまれたら、炎天の下、いつ脱出できるかわからない。
当時は、大統領選がらみのデモ隊の存在も不気味で、
遭遇しないことを祈っていたこともある
安全確保の集中力が不可欠だし、なんせフルフェイスのメットの暑さよ!

フラフラになりながらも、この開放感と充実感は、何物にも替えがたかった。

バイクで市内を走ると、
心がジャカルタの柔い風に溶けていくようだった。

小型バイクを卒業した後、
彼は中古のHONDA400CC❓、当方はSUZUKI250を駆って、
人気の少ない職場へ休日に出かけた。

仕事がひと段落すると、
ソファーと、
日本のマンガが溢れる本棚しかないタバコ臭い休憩室で、
二人して盤を囲む。

初手の前に訪れる静寂と凛とした空気。

彼はおもむろに、パチンと7六歩を突き出した。




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[ 2013/12/04 11:01 ] Jakarta -忘れ残りの記- | TB(0) | CM(0)

jalan-jalan ジャラン ジャラン -7-

自宅を目指すjalan-jaian は、3回目にしてようやく成就する。

それにしても予想以上に時間がかかり、

JJS(ジャカルタ日本人学校)から自宅まで、正味2時間30分であった。

このときは、足の疲れよりも、排ガス、粉塵等によるであろう胸の苦しさが上回った。

1999.5.18&5.19 2日にわたりこのルートを踏破したが、

インドネシアの総選挙パレードが開始される直前に歩いてみたのは、

予期できない街の喧騒や混乱を回避する意味もある。
(総選挙がらみで、JJSもしばしの臨時休校となる)

異国の土地をこの二本の足で歩く。

時に流れる南国特有の風が、先を急ごうとする僕を諌めてくれるようだった。

雑念が浄化され、五感が研ぎ澄まされていくような時間の流れ。

自然があり、名もなき人々が、慎ましく時に雄々しく生きている。

僕はあの道を、ただ、歩いた。

あの太陽と、風が、そのことを知っている。





[ 2013/09/24 07:37 ] Jakarta -忘れ残りの記- | TB(0) | CM(0)

jalan-jalan ジャラン ジャラン -6-

PONDOKへ抜けるここの坂道は実際の難所であった。

車でも相当の勾配を車中から実感していたが、
いざ歩くとなると、何度も足を止めて気息を整えることが必要だった。

BINTARO PLAZAから、この上り坂を越えて、PONDOKの赤信号まで50分

そこで右折したのが、
なんでも勘に頼ってはドツボにはまる僕のお決まりのパターンで、
なんか埃の多い、自動車修理の店が目立つ道に出たなと思ったら、

誤ってCIPTATまで出てしまったのだ。

おかしいな。毎日車で行き来する道路に沿って、歩いていたつもりなのに…

目的地が同じでも、そもそも車での道順と「歩き」のそれが、一致していないのだ。
(「歩き」では実際には侵入不可の箇所もある。一致させることが物理的にも困難なのだ。)

スタミナと気力が尽きかけたこの辺りで、薄々ながらそのことを理解し始めていたと思う。

大通りを一本間違えたくらいなら日本では何でもないが、
異国で感じる心理的距離感というものは相当で、
馬鹿なことをやって以上、無事帰宅せねばという義務感もある。

さすがにそれ以上歩くのはあきらめ、(疲労で足が動かない)
タクシーを拾ってPONDOK PLAZAのHO HOAでベトナム麺を食べ、
マッサージで身体をほぐし、帰路に着く。

結句、2回目のCobaもうまくいかず、
自宅までのjalan-jalanの達成は次回に持ち越しとなる。




[ 2013/09/19 10:00 ] Jakarta -忘れ残りの記- | TB(0) | CM(0)

jalan-jalan ジャラン ジャラン -5-

我が家を目指すjalan-jalan ジャラン ジャランは小さな冒険である。

5/16(日) 休日出勤、タクシーで職場へ向かう。

(運転手のスプノーさんには休日を取ってもらっているか、
家族のニーズに応ずるべく自宅に待機させているかのいずれかだったろう)

9:00から仕事を片付けて、2回目のcoba (チョバ:試し、挑戦) 

BINTARO PLAZAまではやはり70分かかる。
この地点でギブアップした前回の教訓を生かし、
今回は、体力消費の配分にも気を配りながら歩く。

水分補給、小憩のあと、pondok-indah を目指す。

このあとどのくらいの時間がかかるのだろう。
路面の状態や交通事情は、どう変化していくのか。
空模様はどうか。
雨の予感は、緊急ダッシュの準備が要る。
残りのスタミナは?

この辺りの田舎道には、歩道など親切なものは当然ない。
幅員の不十分な道路や坂道は、特に歩きにくい。
自然に渋滞が発生し、車、バイク、バジャイが沈殿していく。
陽炎か幻か、辺りの空気が怪しく揺れてなお、眼前の風景が静止するような感覚。

排ガスとエンジン音が充満するなかを、
時には側溝に足を入れ、車体をかわし捩じるように歩く。

僕は、思い出したかのように空気を肺に入れる。





[ 2013/09/18 09:09 ] Jakarta -忘れ残りの記- | TB(0) | CM(0)

jalan-jalan ジャラン ジャラン -4-

初めてBINTARO PLAZAまでの

jalan-jalan(徒歩行)を挑んだとき、所要時間は70分だった。

出発地点は、_ JJS (Jakarta Japanese School) _

1999年5月13日(木)14:00出発。 

思いのほか時間を費消することに、

己の脆弱なスタミナ、距離と炎暑に対する認識の甘さを思う。

BINTARO PLAZAで水分補給をした後、タクシーで自宅まで帰ることにする。





[ 2013/09/17 12:35 ] Jakarta -忘れ残りの記- | TB(0) | CM(0)

jalan-jalan ジャラン ジャラン -3-

ジャカルタ赴任2年目には、大きなプロジェクトのチーフを担ったので、
週末等休日もよく出勤して、仕事をしていた。

jalan-jalanは、もっぱらその帰路をあてがう。

日頃自家用車の車窓から見る復路を、自分の足と目で再確認していく。
いざ地道を歩くとなると、全く違う景色が眼前に展開していく。

1年間朝な夕な通った道程も、自分ひとりで歩くとなったら、
そのルートがこれほども怪しく感じられるのかと、最初は驚いた。

「ここはしばらく道なり…、あそこの角で右…、もう少し行けば、マクドナルド…」

自身がハンドルを握って車を運転しないことには、道は覚えにくいものだ。
(普段は運転手にすべてお任せで、後部シートで仮眠をとっていることが多かった。
そもそも覚える必要などないのだ。
原則、邦人がこの地で移動するに、運転手付の車を利用しないことがないからだ。)

いきなり自宅までは無謀なので、
(距離感がつかめないし、体力、時間、安全面への配慮は要る。
道中、何かのトラブルに遭えば、徒手空拳、独り身の僕には、
ウェストポーチに入れたちっぽけなケータイが、
日本人にSOSを発信できる緊急避難の唯一のアイテムだった。)

まずは帰路半ば辺りに位置するであろうBINTARO PLAZAまで歩いてみることにした。


bp.jpg  BINTARO PLAZA





[ 2013/09/15 18:52 ] Jakarta -忘れ残りの記- | TB(0) | CM(0)

jalan-jalan ジャラン ジャラン -2-

ジャカルタでの jalan-jalan ジャラン ジャラン

未舗装の乾いた地面と赤土と砂埃が、僕の眼には眩しく映った。

ソピル(運転手)付の日常が当たり前のジャカルタ生活、
ありがたい反面、自在に外出、移動できない煩わしさも感じる。

先方は仕事として、僕や、僕の妻子を、命じられるまま目的地への送迎を果たす。
職場、市街地への食事、近くのスーパーやモールでの買い物、習い事や各種サークル、
幼稚園や学校、友人宅、銀行、空港、その他もろもろ、外出の際は、ソピルとの同伴が大原則である。

(職場や邦人社会では赴任者が車の運転をしてはならないという不文律があった。
事故や事件等、一介の外国人が不測の事態に対処するには、
あまりに危険が大きいから当然である。
ルールを破った自分が言うのは恐縮するが、人には絶対におすすめしない!

が、田舎者の好奇心を満載して赤道を越えたきた僕は、赴任2年目には、車とバイクの現地免許を取得した。

何度か車にも乗ってみたが、バイクと比しても、相当の緊張感を伴い、ものすごい疲労感に襲われる。

ジャパンクラブ主催かなにかの、ソフトボール大会への参加のため、
早朝から車に一人乗って高速道路をぶっ飛ばしているとき、

世界は広い、そして僕はまだ若い!インドネシア最高!

全身の開放感と三十路の青春を謳歌する一方で、

「パンクしたらどうしよう」

「車のネジが外れて故障したらどないしよ」 

「煙出てけーへんよな」と、

現地生産のMAZDAの1BOXカーの性能に、本気でびびっているのだった。




[ 2013/09/13 18:57 ] Jakarta -忘れ残りの記- | TB(0) | CM(0)

jalan-jalan ジャラン-ジャラン

  -- 2020 TOKYO  --

インドネシア語のjalan ジャランは「道」、

jalan-jalanジャラン-ジャランで「散歩」という感じになる。

同僚の多くが「休日はゴルフでリフレッシュ」しているとき、

照りつける熱帯の直射日光を全身に浴びながら、

僕は南ジャカルタの地道を、

ひたすらjalan-jalan(ジャラン ジャラン)という名の小さな冒険へ出かけた。

散歩といえば気軽な感じだが、

berjalan ブルジャラン(歩く、徒歩)なので、長距離移動は、覚悟を決める必要があった。

休日の日中、

タンゲラン南部からジャカルタ南部まで、けっこうな時間をかけて歩いているとき、

僕と同じように「歩くことを目的として」歩いている人間には、一人として出会わなかった。

近距離は格別、それ以上となると、

移動手段として「徒歩」は選択肢にも挙がらない。






[ 2013/09/09 13:21 ] Jakarta -忘れ残りの記- | TB(0) | CM(0)

初代のメイドさん -2-

たまたま我が家の対面は、日本人が住んでいた。
    
といってもこの主とは一度も会ったことがない。

若い日本人男性一人で住んでいたようだが。
そこのメイドさんを通じて、
日本のマンガを、どさっと当方にプレゼントしてくれたことがあった。

たかがマンガ、でもメイドインジャパンは何でもありがたいのだ。

お礼を言おうにも、このお向かいのご主人はいつも不在で叶わなかった。
いったい何の仕事をしているのだろう。ちょっとした謎だった。
    
お向かいの、このメイドさんは名をスリちゃんといい、
子供の好きな若いかわいらしい方だった。

スリちゃんはよく我が家に遊びに来ては、息子の遊び相手をしてくれた。
当時幼かった私の息子はこのスリちゃんによく懐いていた。

暑さと仕事が一息ついて、のんびりできる夕刻なぞ、
スリちゃんやら、運転手とおぼしきお向かいの若い使用人たちが、ゴゾゴゾ表まで出てきて、
我が家のメイドや運転手らと合流し、じつによく井戸端会議を催していた。
   
地べたにどかんと座り込んで、わいわいと楽しげに話し込む。
カードゲームをする。
ラジオを聴く。
ギターを弾く。
雑誌を回し読みする。

こういう地べたのコミュニティは当地の特色のひとつであり、
さまざまの場面で自然発生的に成立するから驚嘆さえする。

なんだか懐かしく趣がある。

それぞれの故郷や家族や人生を背負って、

ジャカルタという大都会の一隅で、外国人家庭の使用人として、今を生きている。

                      -完-






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初代のメイドさん -1-

料理を主として担当する(コキ)、

掃除洗濯等を主に担う(チュチ)の二人のメイドさん、

この二方とは、赴任当初から起居を共にすることとなる。

初代のコキはカルティさん、チュチはケーシーさんだった。

カルティさんは30歳前後で、ジャカルタ市内に家族があり、幼子もいた。
年齢相応の穏やかな人柄だった。

ケーシーさんはスラバヤから出稼ぎに来ていた。
20歳前後で、黒髪は長くかなりの巨漢(女性ですが)でもあった。
田舎から出てきたばかりの娘さんという風情で、若さもあり、喜怒哀楽が顔に出やすい人だった。

我が家の前庭の門をガラガラと右に開くと、すぐそこは地道である。

左右にすーと一本道が開ける。
右に行けば、どでかいモールがある。(今は「そごう」もあるらしい)
左に行けば、閑静な住宅街を迷路のように抜けて、その先は悪路テンコ盛りの勤務先へのルートとなる。






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Bintaroで昼食を -カレーが僕を救ってくれた- 5


昼食時、

辺りに充満し、

僕を襲ってくる魑魅魍魎のごとき

数十人分の弁当箱開封時の形容しがたい臭気を、

(同僚のみなさんごめんなさい

決然と駆逐してくれたのが、僕のメイドさんのカレーの上品な香りだったのだ。

僕はこれを、

Bitaro カレーライスフレッシュバリアー」と秘かに名づけた。

これは強力だった。
   
     ※Bintaro(ビンタローは、勤務先のあった地名)

爾来、僕の「弁当鬱」は快方に向かっていく。

食欲がなくなったとき、
暑気にやられて疲労困憊のとき、
このカレー(カレー&ライス)を連続採用し、危機を脱したことが何度もあった。
不思議と飽きない味だった。

そして、このカレーは、

僕にとっての、

ジャカルタにおける

ストレスマネジメントのひとつとなった。

      -完-






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[ 2013/04/10 09:00 ] Jakarta -忘れ残りの記- | TB(0) | CM(0)

Bintaroで昼食を -カレーが僕を救ってくれた- 4


さて、毎日の弁当の憂鬱を救ってくれたのは、カレーだった。

何代目かのメイドさんに、おいしいカレーを作ってくれる人がいた。

日本人向けにアレンジを凝らしたものだと思う。

隠し味のニンニクが豊かなコク生んでいる。

当初は家で食べていたのだが、

ふと思いついて、これを弁当にしようと。

我ながら起死回生の妙案だった。

弁当箱開封時の「うっ」とくる饐えた臭いが、

食欲を沸き起こすあのスパイシーな香りに変身を遂げる。

これが効果覿面だった。

コロンブスの卵だ!

僕は狂喜し、このカレーに、ムスリムのごとき敬虔な感謝を捧げたのだ。  


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[ 2013/04/09 10:00 ] Jakarta -忘れ残りの記- | TB(0) | CM(0)

Bintaroで昼食を -カレーが僕を救ってくれた- 3

エアコンがフル稼働する室内で、

名うての日本製の弁当箱をもってしても、

半日密封され、

防腐の祈りをねじ込められた手作り弁当の開封を、

さわやかな香りと笑顔で迎えることを、

この熱帯のムンとして充満する空気は、赦してくれない。

やはり熱帯特有の風土が、心身に与える影響のためか

職場の弁当に限らず、食欲が減退する傾向にあった。

    家でも冷やしそーめんをよく食べていた。
    さっぱりして喉を通りやすかった。




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[ 2013/04/08 10:00 ] Jakarta -忘れ残りの記- | TB(0) | CM(0)

Bintaroで昼食を -カレーが僕を救ってくれた- 2


もうひとつ閉口する事情があった。

弁当箱は日本製の赤道を越えてやってきた円筒式ジャーで、

(赴任前に船便で日本から送ったもの)

鮮度を保つにはこれ以上は望めない。

が、弁当箱を開けたときの、なんともいえぬあの香りが、

生来上品にできている僕には

なかなか受け付けられなかったのだ。


多くの同僚が、これまた一斉に弁当箱をオープンするものだから、

エリア一体に広がってくる

あの微かに饐えたような鼻孔を刺激する臭いに、

「うっ」と一瞬息が止まりそうになり、食欲がなくなるのだった。





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[ 2013/04/07 10:00 ] Jakarta -忘れ残りの記- | TB(0) | CM(0)

Bintaroで昼食を -カレーが僕を救ってくれた- 1

  

ジャカルタ駐在中、職場での昼食は、ほとんど持参した日本式「弁当」であった。

毎朝、コキ(料理担当のメイドさん)が早朝から精を出して作ってくれる。


常設の大きなサーバーから
ミネラルウォーターを汲んで、
炊飯器にて米を炊き、味噌汁も作ってくれる。
  
    日本人宅で勤めるのが初めての二人のメイドさんだったので、
    
    すべては一からの教授となる。
    
    日本食や日本人好みの味付けを教えるにも、
    
    当初はインドネシア語がほとんど話せないし、
    
    しかも気質も不案内の外国人(インドネシア人)相手であるから、
    
    当初妻はかなり苦労したことと思う。


だが、毎日のこととなるとメニューのローテーションを組むのも大変であるし、

そもそも僕は、弁当自体があまり好きでない。





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[ 2013/04/06 10:00 ] Jakarta -忘れ残りの記- | TB(0) | CM(0)
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