BILA KU INGAT   忘れ残りのインドネシア

おとっつあんの忘れ残りの記

初代のメイドさん -2-

たまたま我が家の対面は、日本人が住んでいた。
    
といってもこの主とは一度も会ったことがない。

若い日本人男性一人で住んでいたようだが。
そこのメイドさんを通じて、
日本のマンガを、どさっと当方にプレゼントしてくれたことがあった。

たかがマンガ、でもメイドインジャパンは何でもありがたいのだ。

お礼を言おうにも、このお向かいのご主人はいつも不在で叶わなかった。
いったい何の仕事をしているのだろう。ちょっとした謎だった。
    
お向かいの、このメイドさんは名をスリちゃんといい、
子供の好きな若いかわいらしい方だった。

スリちゃんはよく我が家に遊びに来ては、息子の遊び相手をしてくれた。
当時幼かった私の息子はこのスリちゃんによく懐いていた。

暑さと仕事が一息ついて、のんびりできる夕刻なぞ、
スリちゃんやら、運転手とおぼしきお向かいの若い使用人たちが、ゴゾゴゾ表まで出てきて、
我が家のメイドや運転手らと合流し、じつによく井戸端会議を催していた。
   
地べたにどかんと座り込んで、わいわいと楽しげに話し込む。
カードゲームをする。
ラジオを聴く。
ギターを弾く。
雑誌を回し読みする。

こういう地べたのコミュニティは当地の特色のひとつであり、
さまざまの場面で自然発生的に成立するから驚嘆さえする。

なんだか懐かしく趣がある。

それぞれの故郷や家族や人生を背負って、

ジャカルタという大都会の一隅で、外国人家庭の使用人として、今を生きている。

                      -完-






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初代のメイドさん -1-

料理を主として担当する(コキ)、

掃除洗濯等を主に担う(チュチ)の二人のメイドさん、

この二方とは、赴任当初から起居を共にすることとなる。

初代のコキはカルティさん、チュチはケーシーさんだった。

カルティさんは30歳前後で、ジャカルタ市内に家族があり、幼子もいた。
年齢相応の穏やかな人柄だった。

ケーシーさんはスラバヤから出稼ぎに来ていた。
20歳前後で、黒髪は長くかなりの巨漢(女性ですが)でもあった。
田舎から出てきたばかりの娘さんという風情で、若さもあり、喜怒哀楽が顔に出やすい人だった。

我が家の前庭の門をガラガラと右に開くと、すぐそこは地道である。

左右にすーと一本道が開ける。
右に行けば、どでかいモールがある。(今は「そごう」もあるらしい)
左に行けば、閑静な住宅街を迷路のように抜けて、その先は悪路テンコ盛りの勤務先へのルートとなる。






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二代目ソピル(運転手) ドドンさん -スカルノ・ハッタ空港 お別れまで-

スプノー氏の後を継いだドドンさん…
3年間の任期を負えた私達家族の帰国のときまで、苦楽を共にすることとなる。

当時のマイカーは、1BOX-2000CC-ミッションタイプである。
TOYOTA製キジャンが当時のインドネシアの国民車だった(同期に赴任した同僚のかなりがキジャンを選んだ)が、
私はいい選択をしたと思える。(そもそも人の真似をしたくないという気持ちもある)
車内スペースのゆとりが、幼子を同伴した私たちには、重宝したからだ。
赴任時、息子は4歳だった。

車の免許を取得したといっても、運転は素人である。
できるだけ本人を萎縮させぬように、後部座席から、ドドンさんの運転を見守る。
といっても、こちらも命を預けているので、言うべきは、はっきり伝え、修正を促す。

シフトチェンジも徐々に滑らかになっていく。
(当初は、セカンドでグーッツとアクセルを踏み込んで、かなり「引っ張って」サードに切り替えていたので、エンジン音も五月蠅く、乗り心地もいまいちだった。教習所もないし、車を所有している知人もそういないだろうから、実践を通じて習得するしかないのだ。主の私が、彼の練習用に、車を提供したということだ)

「内輪差」を意識した左折を習得させるには、少し時間もかかった。
車長も少しは影響したか。
左折時、左後輪を内側に寄せすぎるきらいがあったので、拙いインドネシア語で、修正法を繰り返し伝授したつもりだ。

本帰国の際、スカルノ・ハッタ空港までこの車で送り届け、
私達4人本帰国の半年前に娘が生まれ、家族は4人となった
を、その瞬間まで見送ってくれた最後のインドネシア人が、ドドンさんである
Sampai jumpa lagi. 

思い起こさずとも、万感胸に迫る。


スカルノはインドネシア共和国初代大統領。
第3婦人がデヴィ・スカルノ、すなわちデヴィ婦人である。

ドドンさん - 警備員から運転手への大抜擢

ドドンさん。
彼は我が家の初代警備員である。私の同僚の運転手の弟だ
仕事がないので雇ってくれないかと、
兄(インドネシア人の運転手)が主人(わが同僚)を通じて、話を持ってきたのだ。

こういうことは当地ではよくある。
友人、親類、縁者、一族郎党のコネクション、ネットワークが強固で、相互扶助の精神もある。
「私の友人の○○をメイドとして雇ってくれないか、雇ってくれそうな人を紹介してくれないか」等々、
「お願い」もよくされる。

このネットワークを通じて、逆に、私達外国人が使用人募集の公知に利用することもある。
「こんな人を探してるんだけど、いい人いないかな?」とメイドに相談すると、
数日のうちに、当該求人の面接に、応募者がとことこやってくる。…なんてこともざらだ。
携帯電話を庶民の彼らが容易に持ちうるわけでもない。

あらゆるコミュニティで、専ら口コミでの情報交換だ。
これが実に機能する。NETの掲示板よりすごいのじゃないか。
恐るべしインドネシア。

職種、地域、血縁、知人、同郷、井戸端会議、
単なる顔見知り等を縁として、縦横無尽の比類なきネットワークが隠然とある。

30代前半(たぶん)、独身、痩身長躯、ちょび髭、指輪、慇懃、
デンゼル・ワシントンを小顔にし、オバマ大統領の相貌を加味したかのような、
重病の母への思いをよく語り、その介護にも勤しんでいた…

ドドンさんは、そんな男だった。

警備員と運転手では職としてのステイタスが格段に違う。
(運転手は使用人としては結構な高給取り)

運転手としての経歴がなかったので、かなり思案を重ね、私は決断したのだ。

彼を運転手に抜擢しようと。
(初代運転手スプノーさんには、少なからず問題もあったので、やむを得ず)
少々の運転技術の未熟さは目を瞑って、私が運転技術を教えようと考えた。
殊勝な彼は、車の免許を、自己資金で賄って取得した。

(日本の教習所のような、赤子に歩くのを教えるような、
ありがたい施設は、世界にはあまりないだろう)

すなわちこの地で、免許を取得したといっても、最初はペーペードライバーということだ。

免許は「取得するのではなく買う」。このほうが実情に近いと思う。
ジャカルタのルート情報も、これから覚える必要がある。

私や家族にも当面煩わしいことがあるだろうが、しばしは我慢だ…。
実直な彼の人柄に触れるうち、情が沸いてきたのだ。
この年で警備員専属では、家庭を築くのもままならないだろう。

少しでも男として独り立ちさせてあげたいと。

メイドさん

メイドは最初から二人いた。
当地で外国人が暮らすには、数名の使用人を雇うこととなる。

インドネシア人から見ると、我々日本人等の外国人は一般論として裕福だから、
雇用創出、援助、現地理解、
安全確保(いわれなき悪意の予防策)の観点からも、これが一般的なのだ。
便宜的にも必要で、日常の中で噴出してくるさまざまの問題に対処するために、
彼らの存在は不可欠ともいえた。
まして私たち新参者には。電話代等の公共料金の支払い一つをとっても、
システムや言葉が理解できないうちは、不安だった。
身ぶり手ぶりとかたことの言葉で必死に伝えて、彼らにやってもらうことになる。

コキ」と「チュチ」といって、料理人掃除人が一軒家で住まう場合のメイドの種類だ。
なんと贅沢なと思いがちだが、これが普通だ。
チュチは「洗う」という意味だが、掃除、洗濯、アイロンがけ等いわゆる雑用全般を担当する。
コキは朝・昼・晩の食事を作る役目だ。
当然、コキとチュチは二人で協力して仕事をすることも多い。
(逆に二人の仲が悪く、
常に臨戦態勢で、こちらが気を使ったりするコンビにも、当然巡り合った

我が家は、狭いながらもメイド部屋が離れの二階にあった。
二人とも基本的に住み込みだった。
アパートメント(日本でいう高級マンション)の場合は、
コキとチュチ兼任で一人を採用することも多いようだ。

スプノーさん4

彼はソロに妻子を残してジャカルタに出稼ぎに来ていた。
前日本人あるじにもらった青い自転車で、毎朝暗いうちから我が家まで出勤してくる。
身長は私より少し低いくらいで(インドネシア人の成年男子としては平均的)
サッカーで鍛えた引き締まった身体が、服の上からもわかる。

運転技術は優れていた。職務経歴に培われてきたのはうなづける。
だが運転を生業とする人たちも、
スピード抑制や安全意識がやや欠ける等々職業人としては玉石混交のなのも事実だ。

日本のおばちゃんに負けているような運転技術や安全意識しかないインドネシア人ドライバーもままある。
ジャカルタの街を車で移動するのはある程度の覚悟がいるひとつの要因だ。

休日によく休みたがること。
夜の残業にも消極的なこと妻子(または妻とその友人・妻)だけの運転時よく不機嫌になること。
空腹や疲労でつらいときもあろうが、感情がすぐ顔に出る人だったから、
こちらが使用人に遠慮してしまうことも出てくる。

雨の外出を億劫がったり、夕刻ラッシュの遠回りを嫌がったり。男尊女卑の傾向もあったのかもしれない。
休日出勤は時給も相応に高く、志願して出勤してくる運転手が多い中、彼は日曜日の出勤を望まなかった。

当然、適度な休みは与えていた。
また妻子に会うための一時帰省等、他の人よりこちらとしては便宜を図ってきていた。
平日に休むのは、同僚の車に乗せてもらっての出勤が可能だし、タクシーという手もある。(これはこれで面倒だが)

ただ妻は、友人の車に便乗させてもらう以外は、外出さえできないこととなる。
女性や子供だけで、しかも日本人がふらふらと外出できるほど、この国はあまくはない。
これが土日に休まれると、家族で外出方法の捻出に苦慮することとなる。
気分晴らしの外食もままならない。
特に、子供の急な病気や治安面での急場に、「足」がないのは、想像しただけでも怖い。
一方、赴任者の自力運転は原則禁じられている。
(法的でなく、不文律的に。一応赴任者や当方コミュニティーの総意として)
それ以前に決死の覚悟がなければこの街でハンドルは握れない。

上??が、彼と任期を共に全うできなかった理由である

スプノーさん3

彼は長年日本人家庭に雇われていたので、日本人気質というものをある程度理解していた。
日本の企業における数年単位の赴任・帰国のサイクルに、自己の就業を合わせて生計をつなぐのだ。
同一企業だと運転手としての職務を飲み込んでいるし、
「日本人」にも慣れている。余分な不安や苦労が軽減される。

ただ旧日本人あるじの帰国後、
無事新たな主人にめぐり合えるかどうか(採用の狭き門を突破し就職できるか)それは本人の努力と運だ。
ともあれ、私の職場の歴代の前任者にも、彼がついていたことは、私たちのような当地新参者に安心感を与えたのは事実だった。

ただ彼には少し困った面があった。

スプノーさん2

スプノーさんとの初対面のあとすぐさま新車での帰宅となった。
自家用車としてキジャンが最も一般的だったが、私は1boxタイプ(日本製)を選択した。
当時はレンタルのシステムがまだ構築されてなかった。
(私を含め同僚のほとんどすべての邦人は、
こちらの日本車メーカーで新車を購入し、任期満了をもって帰国前に売却した)

初対面の日本・インドネシアのおっさん二人、こわばった面持ちでピカピカの新車に乗り込んだ。
(とはいえ私は当時花も恥らう紅顔の三十路男であったが)

ジャカルタに着いてまだ数日、見るもの接するものすべてに心が踊る一方、
生活力や知識が乏しいため、ゆえなき恐怖を感じることも多い。
初めての海外がこのジャカルタだから、外国人に対する免疫もない。

自分より年上のこの人を「使う」ことができるのか。
まずもって運転できるのか。
話しかけてきたらどうしよう。
まさか急に態度が豹変して襲ってきたりはしないだろうな。
会話もままならない外国人に命を預けるのだ。全身が硬直しそうだ。
当面は無知からくる杞憂のオンパレードだった。

彼がエンジンキーを力をこめて回した。

驚いたことにスプノーさんの初運転は超安全運転だった。
jakarta selatan(南部)のわが通勤ルートには信号機がない。
一時停止・左右確認・徐行、すべてが教科書どおりだ。
きわめつけはそのスピードだ。あまりにも遅い。
アクセルを踏み込むことを知らないのではと、本気で心配したほどだ。

当地における雇用の原則として、
3か月はチョバ期間(試用期間)だから、一応、理由なくして解雇することができる。
この間は給与も低く抑えられる。
逆に使用人からすれば何としてでもこの間を恙無く過ごしたい。
(当然過酷な就職難が根底にある。)
チョバが明けるまでは不安定な身分なのだ。

まして当国に来て間もない新参者の日本人に、早々の悪印象を与えてしまっては、
失地回復は困難が予測され、採用までいたったこれまでの苦労が水泡に帰す。
新たな日本人トウアンに「この運転手は雑で安全意識に欠ける」と思われるのだけは、
死んでも避けるぞという決意が伝わってくる。

風貌にそぐわぬよい子の運転は滑稽でもあった。
漫画のような超低速走行も、正当な理由があるのだ。
そんなこんなで何とか家までたどり着いた。

間もなく彼の運転のスピードは通常なものとなった。
それでわかったが彼の運転技術はとみに優れていた…。
 
緊張と悪路に揺れた初対面、初運転の珍道中、忘れない。



 

スプノーさん

我が家の初代運転手はスプノーさんである。赴任直後に使用人採用面接(内定済み)で胸どきどきの初対面となった。

まず「使用人」というこの国のシステム自体が不案内である。赴任前から抱いていた多くの不安要素の一つだった。インドネシア人と接することはもちろん、インドネシア語を話すこともままならぬうちに、一家の主としてインドネシア人を使用人として雇うのだ。

当地で外国人が生活するには使用人の存在は不可欠である。(この意味はあとからわかってくるが、赴任前は、一つ屋根の下でインドネシア人と暮らすなど煩わしいのではと思っていた)

私が案内されたのは、「鋭い眼光、ややちぢれた黒の短髪、齢(よわい)38にしては引き締まった体、ちょび髭もどきもチョイ悪のイメージアップに貢献している…」そんな男の前だった。「この人でなかってほしい」とこっそり祈ったほどだ。さすがの私も彼の雰囲気にちょっぴり威圧された。果たして、彼こそ我が家の初代運転手スプノーさんだった…。

一方で勤務先の諸先輩(ジャカルタ在住の日本人)が、私たち新赴任者の生活全般にわたって、懸命の受け入れ態勢をしいてくれていた。情勢不安の当時のジャカルタで、安全の確保を第一として、仕事面は当然、衣食住・金融・自家用車・子女の教育・使用人・健康管理・医療・買い物等、あらゆる面でサポートしてくださった。インドネシアで生活するための「いろは」を一つずつ教えていただいた。右も左もわからない赴任当初は「迷える子羊」と同じで、先達の指導や助言、援助がないと生きていけない。


 
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プロフィール

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Author:あぱあぱ
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